日蓮宗には様々な活動機関がありますが、その中でも国際活動に主軸を置く僧侶を「国際布教師」と呼んでいます。私は30歳のときに日蓮宗より国際布教師(当時は開教師と呼ばれていた)の辞令を拝受し、ハワイ日蓮宗別院へ赴任いたしました。
日本は明治時代の移民政策により、楽園での生活を夢見ていた多くの日本人がハワイへ移住しました。しかし、移住者は夢の楽園生活を送ることなく、第二次世界大戦の戦火で生きることを強いられ、当時、敵地であったアメリカで過酷な労働を送る日々の中、日本へ帰ることも許されず異国の地で葬られました。
ハワイに点在している日系寺院や教会は、そうした戦前の移住者たちの心の拠り所として建てられ、また社交所としての役割も果たしていました。
現在、日本はアメリカと同盟国という立場ですが、アメリカは今でも真珠湾で起きた戦火を忘れることはありません。
ハワイでの活動においては、日本人やアメリカ人の移住の歴史に則した想いと、両国が受けた戦争の傷を同時に癒す方法を常に模索しなければなりませんでした。
ハワイでの活動の一週間を記すと以下のようなスケジュールになります。
午前6:00起床、お勤めの準備、午前7時から8時まで朝のお勤め、午前9時から打ち合わせ。
その後、一日の活動を開始します。
アメリカでは日曜日に家族で教会へ礼拝に行く習慣があり、ハワイの日系人寺院・教会でも、日曜日の午前中は至る所で礼拝が行われています。
ハワイ日蓮宗別院では午前7:00と10:00から礼拝が始まり、毎週多くの方がお参りに来られていました。
(第二日曜日は祈祷法要)
アメリカの礼拝で最も重要なのは「お説教」でありますが、日本人の私たちが話す英語はアメリカ人にとって非常に聞き取りづらいようで、戦後も多くの日系人は仏教寺院から離れ、キリスト教や新興宗教等へ転身していきました。
今も昔も日本人布教師の悩みの一つはまさに英語という語学の壁であり、日曜日の礼拝が終わっても安心する間はなく、すぐに次週のお説教の作成に取りかからなければなりませんでした。また、布教師の活動はお説教に留まらず、法事・葬儀他、英字ニュースレターの作成、老人ホームへの慰問、他島にある日蓮宗のお寺での行事参加、ホームレスへのボランティア活動等、常に時間に追われていたため、とてもハワイの楽しい生活を満喫できる時間は有りません。
ハワイ日蓮宗別院で2年間の活動を終え、32歳の時、ハワイ島にあるハワイ日蓮宗ヒロ教会に赴任しました。
ハワイ島は富士山よりも高いマウナケアの山々がそびえ立ち、常に溶岩が流れ出ている姿等、他の島では見ることが出来ないエネルギーに満ち有るれた島です。
昔、ハワイ島はハワイ州の州都として栄え、多くの日本人移民が移住し、島には多くのサトウキビ農場がありました。
人々は毎日サトウキビ農場で働き、休みの日はお寺に出かけたり、サトウキビを運搬する汽車に乗って遠足へ出かけていたそうです。
日蓮宗は100年以上前に、日本人が数多く住んでいたハワイ島の南にあるカウという地区で最初のお寺を開き、その後オアフ島、マウイ島へと活動の場を広げていきました。
時代は流れ、日系人の主たる職業であったサトウキビの栽培はハワイからアメリカ本土へ移り、多くの日系人は職を失い、ハワイ島からオアフ島へ移住していったそうです。
ハワイ島から多くの日系人が離島してしまった後、島の人口は著しく減少し、日系寺院や教会は瞬く間に衰退していきました。
ハワイ全体から見ると、ハワイ島のヒロの街はノスタルジーなイメージで人気が有りますが、それは衰退してしまった当時の時間が止まってしまっているだけであり、治安は決して良いとは言えません。
街から日蓮宗ヒロ教会へはしばらく走りますが、私が見たヒロ教会はまさに崩壊寸前で、着任後はどこから手を付けてよいのか、只々思案を続ける日々が続きました。
アメリカの寺院、教会には日本のように檀家という括りが有りません。
寺院、教会に集う人は「メンバー」という登録を行いますが、入退会は自由で一年で退会してしまう人や急に来なくなってしまう例もよく有ります。
「日系の教会にアメリカ人に来てもらうにはどのようにしたらよいのか。」
限られた資金の中で思案を巡らせる中、先ずはアメリカ人が目に留めやすい、明るい庭づくりを始めようと考えました。
それから、庭づくりに2年、内外の塗装に1年を費やし、地道な作業を続けること3年、ようやく納得のいく形が出来上がった頃、アメリカ人が一人、二人とお寺に訪れ、日曜日の礼拝にも参加してくれるようになっていったのです。
彼らは明るい庭と、日蓮宗の法要やご祈祷に興味を示し、家族や友人を誘ってお寺へ来てくれるようになり、法要では白人系のアメリカ人参加者が増え、日系人の既存のメンバーと共にお経を読み、お堂がいっぱいになることもしばしば有りました。
日本ではお寺にお参りする際にお布施という名目でお金をお預けしますが、本土から来たアメリカ人には「お布施」の意味が分かりません。ですが、彼らは幼い頃から教会へ通っていた時のイメージで、教会に対して「寄付」をするということは習慣付いていました。
新メンバーに「お布施」は施しであるということを常々伝えましたが、彼らの中で「寄付」という概念は消し去ることが出来なかったので「寄付」のままでよいという結論に到達しました。
ヒロ教会では日系人と白人の人たちが相混ざり、時には戦争のことを思い出し喧嘩することもありました。しかし、互いに泣いたり笑ったりを繰り返すことで、かけがえのない新しい何かを生み出すことが出来ました。ハワイの活動の中で法務を執り行い、教えを弘める意義はもとより、実はこうしたメンバーとの関わり合いが一番大事てあると再確認しました。
現在、色々なご縁の中で、千葉県印西市に新たな活動の拠点を設け、場所や時代は違えども、残された自分の役割を全うしたいと日々感じています。
日蓮宗には日蓮宗大荒行堂という教育機関があり、毎年11月1日から2月10日までの100日間、千葉県市川市にある法華経寺内で修行が行われています。
修行は1日2時間半程の睡眠の中、7回の水行と読経三昧。朝夕2度のお粥をいただき、極限の状態で100日間の過酷な生活を送ります。
そうした世界でも類を見ない厳しい修行に何故入ろうとするのかと言えば、それは「悩める人を救う」という言葉に集約されます。
私は26歳のときにはじめての荒行を体験し祈祷師としての道を歩みはじめましたが、自分の持てる能力が諸外国の人たちに対応出来ていないと気づき、32歳のときに二度目の荒行(再行)に入りました。
二度目の修行も無事に成満し、今度はアメリカ人にも納得のできるご祈祷を行えるようになりましたが、更に人々の幸せを願う為、36歳のときに三度目の荒行に入ったのです。
行をしているときは辛く、切なくなる時も多くあります。足が痛い、寒い、眠い・・・ことが日々繰り返されますが、ある一定の時期が過ぎると、そうした極限の状態から目の前が急に開け、自分の視野が少し広がったように思えてくるのです。
日蓮宗ではこれから日本人だけではなく、アメリカやヨーロッパでも荒行に志願する僧侶が出てくるかと思います。何故厳しい修行が必要なのかという意味を、彼らにも伝え理解してもらえるよう、日本の僧侶は修行を止めてはならないと感じています。