こちらのページでは人生に悩んだり、苦しんだりされている人の心の支えになる言葉を紹介させていただきます。
私自身ももっと学びたい、もっと容量を増やしたいと日々感じています。時間が無い方でも簡単に思い出せるような言葉を紹介させていただきますので、ご一緒に賢者の癒しを体感いたしましょう。
「上善は水の如し」 「老子」
(じょうぜんはみずのごとし)
何処かで聞いたことありませんか?
そうです。この言葉は日本酒の銘柄で有名ですよね。
私は飲んだことがありませんが・・・・
上善とは、良い生き方というか、理想的な生き方ですが、そういう生き方を学ぶのであれば「水に学べ!」という事ですね。
まず、水はとても柔軟であるということ。
どのような器であっても、必ず、逆らわずに入っていきます。
また、水は低いところに流れていき、常に謙虚な姿勢を崩すことはありません。
そして、誰でも嫌がる低いところへ、自ら進んでいきます。
最後に、水は強いエネルギーを持ちます。
一たび急流になれば、固い岩を打ち砕き、津波の様に、船や建物なども一気に押し流す力を持っています。
このように、水は柔軟、謙虚、強い力(秘めたエネルギー)という特徴があります。
これらを身につけ、継続することは容易ではありませんが、何か悩んだときに、この言葉を思い出し、行動してみてください。
きっと物事が良い方向へ進んでいくことでしょう。
「上善は水の如し」
「三十にして立ち、四十にして惑わず」 「論語」
(さんじゅうにしてたち、しじゅうにしてまどわず)
最近、この言葉はあまり聞かなくなりました・・・・。
「われ、十五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳にしたがう。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず。」
大体上の文章を見るだけで理解できると思います。
60歳の耳にしたがうというのは、どんな意見にも素直に耳を傾けられるようになる、ということで、70歳の部分は、欲望のままにふるまっても人間の規範を逸脱しないような自在の境地に達することができたことを指している様です。
是非、これらを人生の目標として、日々努力、精進していきたいものです。
「三十にして立ち、四十にして惑わず」
「和を以て貴しとなす」 「論語」
(わをもってとうとしとなす)
何処かで聞いたことがあると思います。そうです。聖徳太子が十七条の憲法の中で使われていた言葉です。
この憲法で聖徳太子は、第一条では「和」の精神を伝えていますが、人々が徒党を組んで、君主や親に反対するようなことがなく、縁ある人と仲睦まじくしていれば、物事は順調に進むであろう、と言っています。
また、この言葉の元と成った人物は、孔子の弟子の有若(ゆうじゃく)という人で、「礼の用は和を貴しとなす。先生の道もこれを美となす」と言っており、礼節は社会で生活することの根本であり、それには和の心が無ければ物事も上手くいかないと言っています。
何時の時代も人間関係は難しかったのですね。私たちのご先祖も、そのような境遇を体験されていたわけですから、私たちが普段悩んだりすることも、特別ではなく当たり前の事なんです。そして、悩みがあるからこそ、心の拠り所となる仏教や他の宗教があるわけです。
聖徳太子は、十七条の憲法の第二条で、このようにも言っています。
「まず、篤く三宝を敬いなさい。三宝とは仏法僧なり。仏教は全ての生き物の拠り所である。」
さらに、第一条で述べた「和」の部分を実現させるために仏教が大事である、と言いました。
これは家庭でも、会社でも、他のコミュニティーでも難しい問題で、言葉の発し方や受け取り方のほんの少しの行き違いなどが、人間関係を難しくしてしまうことがあります。
私たちは、もっと心を広げ、寛大な気持ちで人と接する必要があるのだと思います。例えば、他人が、何かのミスをしてしまった時には、それを自分のミスとして受け止めてあげたり、また、他人の悲しみや喜びは、自分の事の様に考えてあげられるような、仏教でいう「慈」が必要なのではないかと思います。
科学が発展し、私たちはネットの中で、自分好みの人だけと通じ合えるようになり、嫌いな人や、自分の意に合わない人との関係は簡単にリセット出来てしまう時代になってしまいました。そういう中で、私たちはこれから「和」というものを、どうやって繋げ、後世に伝えていくかという事は、とても重要な事だと思います。
何故なら、そういった「良い事・嫌な事」の両面を持つことは、豊かな人間性を育んでいくことだからです。
時間があったら家族や友人と「和」について語ってみてはいかがですか?
きっと語り合っている中での「和」が見つかると思います。
「和を以て貴しとなす」
「人は流水に鑑みなくして止水に鑑みる」「荘子」
(ひとはりゅうすいに かんがみなくして しすいにかんがみる)
今日は、「自分自身を映し出す。」という言葉ですね。
皆さんもご存知の通り、流れが速い川などでは、どんなに目が良い人でも、自分の顔が映る川面を見ることは出来ません。しかし、水の流れがほぼ静止している水溜りなどでは、その有るがままが映し出され、それを自分でも見ることが出来ます。
私たちの心境も同じです。仕事や生活の中で何かの判断を下さなければならない時、一度心をリセットして、もう一度冷静に考えます。そうすると、今までとは違った判断が下せることがあります。
私たちは日常の生活の中で、雑念や欲望に心を奪われ、思わぬ時に足をすくわれてしまうことがあります。例えば、武道の試合でも、よく「勝ちたい。勝たなければ。」と考えれば考えるほど、体はガチガチになり、見ている方もリラックスすることができません。
自分の行動や言動は、自分だけのものではなく、周囲の関係しているすべての人に影響を与えるものですので、日々気を付けて行動したいものです。
さて、これは私が昔聞いた話です。
ある所に有名な高僧がおりました。その高僧の所に、熱心に勉強に励んでいる一人の僧侶が訪れました。僧侶は普段から自分が勉強してきた事に関する質問を、その高僧にぶつけました。
しかし、高僧は彼の質問には全く答えなかったのです。
質問した僧侶は、答えを聞き出そうと、高僧の所へ毎日行き、粘り強く質問を繰り返しました。
すると高僧が答えました。
「お茶を注いでくれないか。」と。僧侶は言われるがままお茶を注ぎ始めました。
そして高僧は、「わしがいい、というまで注いでくれ。」と言いました。
高僧は何時まで経っても止めていいとは言いませんでした。そのうち、お茶は溢れだし、茶托からもどんどんお茶がこぼれていきました。
高僧は、
「この湯呑はお前と同じだ。お前の頭は知識で一杯になっていて、新しい教えが入る余裕が無い。私はお前の頭が、新しいことを受け入れられるような器になるのを待っているのだ。」と言いました。
私たちは日々の行動の中で、直ぐに冷静さを失ってしまうことがよくあります。こうならない様に、私たちは普段からキャパシティーを広くして、常に心に余裕を持てるようにしなければいけませんね。
「人は流水に鑑みなくして止水に鑑みる」
「他山の石、以って玉を攻くべし」 「詩経」
(たざんのいし、もってたまをおさむべし)
直訳すれば、自分の山でなく他所の山から出た石でも、その石でもって自分を磨く材料とすることが出来る、と言っていますね。
もっとわかりやすく言えば、「人のふり見て、我がふり直せ」という事ですが、常に一生懸命頑張っているつもりでも、自分が成長しているのかどうかは、なかなか見えてこないものです。むしろ、「後ろに下がっているんじゃないかな?」なんて焦ることさえ、あるかもしれませんね。
そのように、自分の周りに良いお手本となるような人が居ない場合はどうするべきか・・・・?
よく、人の愚痴を言う人、人を押さえつける人、人を罵る人。世の中にこういう人も沢山いますよね。でも、こういう人たちからも、多くを学ぶことができます。
自分をスポンジに置き換え、吸収できる水(他者の言葉や考え方)をどんどん吸収します。その後、そのスポンジを絞り、自分の生活や目標を磨くための、良い言葉や考え方だけを残していけば、周囲に逸材が居なくても、勉強になり、自分を常に磨くことが可能になります。
吉川英治さんも「我以外皆師(われいがいみなし)」と言っているように、自分以外の、 人でも物でも皆、自分に何かを 教えてくれる先生なのです。
この世は、全てが縁によって構成されている世界です。勿論、宇宙を含めて全てです。その宇宙の真理を見極められた人を、「ほとけ」と言います。ですから、よく亡くなった人をホトケさんと呼んでいますが、本来の仏の意味は上述の様な事を言います。
仏の世界に到達出来ることは簡単ではありません。しかし、到達しようとする努力は、私たちも怠ってはいけないのです。
「他山の石、以って玉を攻くべし」
「智はなお水のごとし、流れざるときは即ち腐る」「宋名臣言行録」
( ちはなおみずのごとし ながれざるときはすなわちくさる)
水は絶えず流れていなければ腐ってしまう。
私のお寺の庭にも池にメダカを飼っていますが、たまに水を入れ替えなければ、メダカたちは死んでしまいます。
水は無味、無臭、無色透明、重力に逆らわず高地から低地へと流れ、いかなる形にも変化するのが性質です。
私たちの「智」も同じように、常に使っていないと、どんどん頭が固くなってしまい、遂には錆びついてしまうことも考えられます。
そう言えば、以前よく脳についての話題が取り上げられていました。
私たちの体の細胞の数は、赤ちゃんの時が一番少なく、大人へ成長するとともにその数がどんどん増加していくそうです。
しかし、脳細胞は生まれた時にすでに完成しており、約140億個あるそうです。ですから、脳細胞に関しては増加することはなく、むしろ成長とともに減少し、一度脳細胞が壊れると髪の毛と同じように再生されないそうです。
また、私たち人間の脳細胞は、死ぬまでに3%程度しか使用されていないと言われています。周囲から天才として知られている人たちでも7%くらいが限度だそうです。残りの脳細胞は未使用のまま、寿命がつきるのです。
専門家は、「年齢とともに脳細胞がいくら減少していくと言っても、まだまだ使用していない脳細胞は温存されているため、『歳をとると脳は鍛えられない』というのは嘘です。脳細胞が減っていっても、使用する脳細胞はまだまだ限りなく残されていますから、人体の構造上、脳は死ぬまで使い続けることができるのです」と言っています。
社会ではよく上司から「頭をつかえ!!」と言われ、私を含め、たびたび凹んでしまう人が多いと思います。
脳細胞が減っていくだけなら仕方ない・・と諦めがちな私たちですが、医学博士・姫野先生による新しい発見があった様です。それは「大人になっても脳細胞は成長している」と実験で証明されたのです。
良かったですね。これで私たちも諦めずに何でも前向きになることができます。
その姫野先生の文章に、脳細胞を増やす基本五カ条がありましたので以下に紹介します。
1.食事=頭を良くする食事に気をつける。
2.運動=適度な運動は脳細胞を刺激する。
3.休養=ストレスは脳細胞新生の大敵である。
4.睡眠=眠る間に脳は若返る。
5.生きがい=脳が感動すると神経伝達物質が放出される。
素晴らしい発見ですね。
何でも前向きに、色々な事を吸収し、挑戦して行きましょう!!
心に平安をもたらすのも、自分たち次第です。
「智はなお水のごとし、流れざるときは即ち腐る」
「衣食足りて礼節を知る」 「管仲」
(いしょくたりてれいせつをしる)
これは名宰相「管仲(かんちゅう)」の名言です。
「倉稟(そうりん)実りて、則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて、則(すなわ)ち栄辱(えいじょく)を知る。」
当時の兵糧倉、いわゆる米倉が一杯になると、皆、礼節を弁(わきま)える様になり、衣食が十分に足りてくると、道徳や倫理などの意識も高まっていくだろう、という言葉です。
管仲の素晴らしいところは、政治においても「国民主体」であったことのようです。
彼の思想は、まず国民の生活を安定させ、その安定した生活の中で各々の道徳意識が高まり、その結果国の基礎が出来上がる、と言うものでした。これは、戦国時代に有りがちな「戦(いくさ)」を優先したのではなく、まず「国民を救う」という先見性に秀でた考え方だったのです。
今の政治は「国民主体」でしょうか?
国民主体に見せかけているだけのように見えるのは、私だけでしょうか?
仏教では天地自然の恩を知ることを「知恩(ちおん)」と言います。そして、「足るを知る」という言葉は、皆様ご存知の「知足(ちそく)」です。私たちは普段から「知恩」や「知足」という言葉を忘れ、不満や欲望の虜になり、その結果思わぬ破局や自滅を導くことは日常でもよくある事です。
さて、動物の「トラ」。
トラは、自分や自分の子が満腹の時には虫一匹も殺さないと言います。ただ無意味なだけの殺し合いはしない。それが野生で生きるものたちの掟なのです。
日本のレストランやホテルでは、食べ物の持ち帰りは衛生上出来ませんが、アメリカでは、カフェであろうと、ホテルであろうと、必ずと言ってよいほど、食べ残したものは自宅へ持ち帰ることが出来ます。普段から裁判沙汰に関して厳しいお国柄のアメリカでも、食べ残しに関しては、モラルを重んじているのかもしれませんね。是非、日本も、食中毒を起こさない程度の食べ物くらいは、持ち帰りが出来る様にしてもらいたいものです。私たちは「生命(いのち)」を頂いているわけですから。
どんなにお金持ちになった時や、どんなに貧しくなった時でも、せめて人に対する敬意や礼節だけは忘れてはいけません。私たちは人種や言葉は違えども、同じ時代を生きている「友」なのですから。
「衣食足りて礼節を知る」
「禍は足るを知らざるよりも大なるはなし」 「老子」
(わざわいは たるをしらざるよりも だいなるはなし)
人間の欲望が起こす災難は、「足る」ことを知らないのが原因なのですよ、と言っています。
私たち人間の欲望にキリがないことはご承知の通りです。しかし、私たちの人生の中で、全ての欲望が必要ないという事ではありません。夢や希望を叶える為には、ある意味、欲を持たなければ前に前進することができません。
しかし、猪突猛進の如く突き進めば、必ず周囲から足を引っ張られたり、途中で夢や考え方を崩される場合があるから、十分気をつけなさいよと、老子は言っているのでしょう。
仏教では欲望の事を「煩悩(ぼんのう)」と言います。「煩悩」は108あると言われており(例えば大晦日に突く除夜の鐘の数が良い例ですが)、その中でも恐ろしい煩悩は「三毒(さんどく)」と呼ばれているものです。
それは以下の事柄を指します。
貪 (とん) むさぼり、欲、執着で苦しみの原因になる。
瞋 (じん) 怒り、憎悪、不安や悪行の原因となる
痴 (ち) 愚かで、真理を知らず、全ての迷いの原因となる。
勿論、悟りを得たお釈迦様であれば、どんな怨念や、嫉妬、怨恨などの煩悩の炎を浴びせようが微動だにするはずがありません。
しかし、私たち普通の人間(仏教の言葉で言う「凡夫」 ぼんぷ)は、この様な煩悩の炎が降り掛かってきたときは防ぎようがありません。
会社でそういった経験は無いでしょうか?
あるいは、その煩悩の中で苦しんでいる人を見つけたことはありませんか?
普段生活していると、そういう人がたくさんいる筈なのに、私たちは気づきませんし、気付こうともしません。いや、意識的に目を反らしているのだと思います。それは、他人の苦しみを凝視することは、自分でも大きなエネルギーを必要としますから、意識的に知らんぷりをしてしまいがちになるのかもしれません。
お節介になるかもしれませんが、友人や知人に大きな災難が来る前に、一言助言して助けてあげることなども、私たちの人としての務めではないかと思います。
「禍は足るを知らざるよりも大なるはなし」